手さぐり
すでに始動しているプロジェクトなのだが。
考えていたよりも、相当に手ごわい。
最初は、淡々と、ぐらいしか想定していなかったキーポイントは、
耳でたしかめるうちに、つぎつぎとハードルを発見していく。
長文としてききとりやすいテンポ。
耳ざわりでない声質。
考えているのは、目で読んでいるのと変わりない
違和感のなさと、しかも 無表情ではないこと。
さらに、日本語としての品位。
ただたんに音声化したからといって、講義と同じように
聞きながら意識がとんでしまうのでは意味がない。
かといって、~調、~節とかいうようなものは願い下げだ。
さらにいってしまえば、やることに意義ありとする安直な意識もね。
だれに向かっていっているわけでもない。
ひたすら自己へ課していく負荷であり
表現者としての限界を問う 立案者からの切り分けだ。
ドキュメンタリーでもなく
文学でもない。
しかし、わたしはこのことばの伝えられた
背後の沈黙を
感じとれる気がする。
沈黙は無ではなく
不在は無ではない。
ならば きっと
うつしとることができると。
コメント
この記事へのコメントは終了しました。
プロジェクトを組んで何か・・・を
されるのですね。
「おけさ恋うた」のような感じなのかしら。
投稿: 陽花 | 2007/09/19 07:45
はい。
まだ混沌の状態なのですが、意思だけは明確。(ここだけは、おけさと似てます)
6月ころから温めているのですが、いざ手をつけてみるとたいへんな山だったわけです。
しかし、こうやってことばにできる段階にきましたので、徐々に形がついてくると思います。
こうなってはならぬ、という自身への叱咤激励であると同時に、共同作業者へのアピールでもあります。
今回は、説得しなければいけない相手がいますのでね。(笑)
プロジェクトは、右欄の一番上のバナーからご覧になれます。
いつまでも隠していないで、そろそろオープンにしましょうね。
投稿: Suzuka | 2007/09/19 08:10
う~ん、おもたい題材ですね。
でもsuzuka様はやると決めたらやり通す方だと8月の「おけさ恋うた」で思いました。
頑張ってくださいね。
投稿: 陽花 | 2007/09/19 19:31
はい。
こうやって、コメントをいただくことで、またひとつ、退路を絶っているわけです。(笑)
時間は、無限に使えるわけではありません。
生活のなかで、幾つもの制約を受けています。
経済学を専攻した最大のメリットは、その効用が最大の箇所を押えてやればいいのだという着眼でした。
プロでないことのよさは、捨て身になれることでしょうか。
経歴などもたないわたしは、結果さえ出せればいいのだと思っています。
それは、「売れる」ための結果ではなく、「伝える」ための結果。
そして、それはわたしが聞いて諾(うべな)えるものであることが基準です。
たとえ、100%ではなくても。
すき好んで、やっていることですが
これもまた 縁かと、思っています。
投稿: Suzuka | 2007/09/20 09:58
アウシュヴィッツ、と耳にするたびに、
目にするたびに、もうずいぶん昔に見た、
「やせこけた死体」の写真を思い出します。
人間って、あそこまでやせるものなんだ…と
それを考えることで、恐怖を抑えていました。
関連の本も読んだり、
テレビのドキュメンタリーを見たり、
それでもいまだ以って「信じられない」現実、
「あったこと」なんですよね。
もう一度、この年齢で、私も確認してみたい
と、そう思いました。
投稿: とんぼ | 2007/09/20 21:43
とんぼさま
わたしもそうでした。
いろいろなものを読んだり、見たりしました。
そして、自分自身の中で、ある意味ステレオ化してしまった部分があるような気がします。
けれども、それは間違いでした。
半世紀をたっても口にすることのできなかったことが、あったのでした。
そして、それは「資料」と呼ぶべきものでなく、未来へのてがかりとしてつたえるものであったということが、わかったのです。
淡々とかたられる凄惨な記憶。
けれど、わたしはその底に、あるいは傍に
希望がたち添っているような気がします。
それこそが わたしの、否 わたしたちの手渡したい「意思」なのだと。
投稿: Suzuka | 2007/09/21 06:02